井川夢の吊橋にある謎の廃隧道/松山段隧道【机上調査編】

廃道とか旧道とか未成道とか

はじめに

前回の記事はこちら

井川夢の吊橋にある謎の廃隧道を追う【現地調査編】
はじめに以前、こんな記事を書いた井川にある夢の吊橋を訪ねた際に謎の廃隧道があった。事前情報もなく、後日調べても特にこの隧道に言及している人もいなかったので、正体がまるで分らなかった。そもそもこのトンネルの反対側はどうなっているのか、どこにつ…

前回、現地を調べてみて分かったのは次のとおりである。

・幅・高さ約2.1mの馬蹄形隧道
・東側に向けて降っている片勾配であり、直線的に穿っている。
・中央部のみ素掘り
・東口は湖岸中腹であり、平場は存在していなそう。
・西側坑口は夢の吊橋にあるコンクリート構造物の天端とほぼ同じ高さ

これを踏まえて、この隧道の正体を考察してみよう

仮説① 井川線延伸計画説

当初考えていた井川線延伸計画の跡説。現地調査を踏まえると、おそらくこの可能性は低いと考えられるが、一応検証してみよう。

井川線には、畑薙ダム建設に合わせて桃ノ木島方面へ延伸する計画が存在したことは前回の記事でも触れた。また、井川本村までの延伸を望む声もあり、堂平駅から井川本村方面へ向かうルート上にこの隧道が位置していることから、現地を訪れるまでは未成線跡ではないかと考えていた。

しかし、現地調査によっていくつかの疑問点が浮かび上がった。

まず、隧道の断面が小さいことである。

現地で実測したところ、幅・高さともに約2.1mしかなく、人が立って歩ける程度の大きさであった。森林鉄道や工事用軌道であればともかく、大井川鐵道井川線のような専用鉄道の隧道としては余裕が少なすぎる。

出典:『井川発電所工事誌』(1961年、国立国会図書館デジタルコレクション、PID:2496482)

井川線の建築限界は上図のようになっている。
井川線の隧道は普通鉄道としてはかなり狭小に造られているが、それでもこの建築限界を支障しないよう造られているはずなので、幅、高さ共に2.1mしかないこの隧道が鉄道用を想定されていたとは思えない。

また、東側坑口の地形も気になる。

隧道の東側は湖岸中腹に開口しており、その先に線路を敷設できそうな平場は存在しない。もし鉄道隧道であれば、坑口の先には築堤や橋梁、あるいは次の隧道へと続く線路敷が存在するはずであるが、そのような痕跡は確認できなかった。

また、西側の夢の吊橋周辺には数多くのコンクリート構造物が残されていたものの、これらも鉄道施設というよりは、何らかの工事設備を支えていたような印象を受けた。

以上のことから、この隧道を井川線延伸計画に伴う未成線跡と考えるには無理があるように思われる。

仮説② 井川ダム建設遺構説

では、この隧道は何のために掘られたのだろうか

出典:地理院地図(国土地理院)に筆者加筆

鉄道説は否定されたが、それでもこの隧道が旧堂平駅へのなんらかの運搬ルートであったのは地形からみても想像に難くない。

出典:国土地理院撮影空中写真(1974年)

井川ダム建設中である1950年代前後の航空写真を確認しようとしたが、建設後の1970年代の写真しかなかった。

この時にはすでに堂平駅周辺にあった建設時の施設はなくなっており、中山沢には何の吊り橋も架かってないように見える。

もし1960年代の畑薙ダム建設のための井川線延伸計画の跡であったら、10年程度の年月しかたってないので、なんらかの痕跡が写ってそうだが、それらしきものはない。

おそらくは、畑薙ダムではなく井川ダムに関連するものだろうと判断して、井川ダム建設当時の資料を調べてみることにした。

大体のダム建設には、工事誌が編纂されることが多いので、井川ダムの工事誌を探してみたところ『井川発電所工事誌』という資料を見つけた。

この工事誌の仮設備の項目を確認してみたところ、おそらくこの隧道の正体と思われるものが見つかった。

4 長距離コンベヤー

当プラント中No.2コンベヤーは延長580mでその中に318mの隧道と、86.5mの鋼製吊橋がある。
運転当初は、いたずらに延長が長く、隧道内は採光が不十分のため、円滑な保守運営が懸念されたが、円滑に運転ができた。
ベルト保守の最大眼目である蛇行調整が比較的容易であることが、その大きな理由としてあげられる。

出典:『井川発電所工事誌』(1961年、国立国会図書館デジタルコレクション、PID:2496482)

この記述を現地調査の結果と照らし合わせると、今回見つけた隧道は下島採石場から堂平の骨材プラントへ骨材を運搬するベルトコンベヤー隧道だった可能性が極めて高い。

この資料には、骨材生産用仮設備の平面図もあったが、それとも位置が一致している。

また、骨材生産用仮設備配置図にはなんと隧道や中山沢に架かっていた橋梁の名前も書かれており、それぞれ『松山段隧道』『中山沢〇〇(橋梁?)』と書かれている。

長さは松山段隧道が318m、中山沢橋梁が86.5mで、図面には結構立派な鋼製吊橋が描かれている。

仮設備故に、記述はこれしかないが、確かにこの隧道はダム建設時の遺構であったようだ。

と言うことは、やはりこのコンクリート構造物は鋼製吊橋の主塔基礎だったのだろう。
夢の吊橋の位置には、かつて立派な吊り橋があり、その上をベルトコンベヤーが骨材を運んでいたのだろう。

ここにもかつてベルトコンベヤーがあったのだろう。

 下島採石場は現在はダム湖に沈んでおり、痕跡は確かめられない。
 下島採石場で採取された原石は、まず下島第一プラントで簡単にふるい分けされてから、ベルトコンベヤーで堂平駅に併設された堂平第二次プラントに送られた。
 堂平第二プラントでは、砂とサイズ別の砂利にそれぞれふるい分けされ、そこから井川線やベルトコンベアにより、西山沢駅(現在の井川駅)付近のサイロにてセメントと練り合わされ、そこよりケーブルクレーンによりダム躯体へと生コンが運ばれていった。

それらの仮設備は、ダム完成後に一部のクレーン橋脚基礎(現在の井川展示館の上部)を残し解体されたと思われたが、その残骸がまだここに残されていたようだ。

ダム完成後、仮設備のほとんどは撤去された。しかし、その一部は70年近く経った現在でも静かに山中に残され、当時の工事を物語っている。

未成線跡を期待して始めた調査だったが、結果として出会ったのは、それ以上に興味深い井川ダム建設の歴史だった。

さいごに

現地調査の時点では、井川線延伸計画の未成線跡や、井川ダム建設時の何らかの工事用隧道など、いくつかの可能性を考えていた。しかし、『井川発電所工事誌』を読み解くことで、現地で確認した隧道や夢の吊橋脇のコンクリート構造物は、井川ダム建設時に骨材を輸送するベルトコンベヤー設備の一部であったことがほぼ明らかになった。

現地では、隧道の断面や線形、坑口の位置などから「鉄道ではなさそうだ」というところまでは推測できたものの、その用途までは分からなかった。ところが、工事誌に記されたわずか数行の記述と設備配置図を照らし合わせたことで、これまでバラバラだった遺構が一本の線でつながったのである。

夢の吊橋の脇にひっそりと残る松山段隧道は、かつて井川ダム建設を支えた骨材輸送システムの一部であった。現在ではその役目を終え、名前を知る人もほとんどいないが、こうした遺構が今なお現地に残されていることは非常に興味深い。

何気なく夢の吊橋を訪れるだけでは気付かない場所だが、その足元には、日本有数のダム建設を支えた土木技術の痕跡が、静かに眠り続けているのである。

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