- 訪問日 2018年3月22日
- 所在地 静岡県沼津市
- 平山城
- 築城者 北条氏康? 武田勝頼 水野忠友
- 築城年 1569年 1579年 1777年
沼津城は現在の沼津市中心部にあった城である。
一般的に後世の名称である沼津城として知られているが戦国期は三枚橋城と呼ばれていた
三枚橋城の起源は1569年に北条家によって築かれた砦だと言われる。
この前年に武田家は今川家との同盟を破棄し駿河侵攻を始め、これに怒った北条氏康は甲相同盟も破棄、これにより甲駿相三国同盟が完全に崩壊。これによって武田家と北条家が敵対し、1568年~1571年にかけてここより少し東にある北条家の拠点、戸倉城を巡り武田家の侵攻が相次いでおり、それに対する備えといった面が大きかったと思われる。
その後両家は和睦、再び甲相同盟は締結されるが、1578年に起こった上杉家の内乱、御館の乱にて、景勝を支持した武田家と景虎を支持した北条家で再び対立、翌年1579年に北条家への備えとして武田勝頼がこの地に三枚橋城を築城した。翌年には築城に携わった信濃松尾城主小笠原信嶺が三枚橋城に在番を命じられているが、それ以前に甲越同盟により北信濃の情勢が安定したことを受けて、海津城代春日信達(高坂昌信として有名な春日虎綱の次男)が三枚橋城代になっている。
信達は1581年に北条家の戸倉城を内応で落としたが翌年2月29日に戸倉城が北条家によって落城。3月28日に武田方が城を放棄したため、三枚橋城も落城している。
この時すでに武田家は滅亡しているが、それ以前に春日信達は甲斐国防衛のためと甲斐新府城に馳せ参じ、勝頼の側近で武田家没落の一因と言われる長坂光竪によって退けられたと言われるため、戸倉城落城の前後で既に三枚橋城を退去していたと思われる。また小笠原信嶺は本国信濃松尾城で織田方に寝返り織田信忠の軍に加わり高遠城を一緒に攻めている。
三枚橋城の開城後は徳川家の松平忠次は城主として入ってる。が翌年1583年に城内陣中にて死去している。
その後も徳川家の城として機能し、小田原征伐の際には拠点の一つとしても使われ、1590年3月に豊臣秀吉が入城した際に津軽為信が秀吉と謁見し、所領を安堵されている。
徳川家康の関東転封後は中村一栄が三枚橋城主となったようである
関ヶ原の戦いの後、大久保忠佐が2万石で三枚橋城に入り沼津藩が成立 しかし、1613年に忠佐が死去すると、嫡男も同年に父に先立って死去 していたこともあり、幕府は忠佐の八弟の忠教を忠佐の養子とし跡を継がせようとしたが、忠教は「自らの勲功ではない」と固辞し、結果沼津藩は断絶し、改易された。
その後しばらく城は放棄されたが、1777年に水野忠友が2万石で沼津に入り 三枚橋城の遺構を利用し沼津城を築城した 三枚橋城の北半分を再利用した非常に小柄な城であったと言われる。
梯郭式平山城で狩野川に隣接して本丸、その北西に二の丸三ノ丸が造られていた。天守に相当する三層の櫓を本丸に建て、二の丸に御殿を置いた。最終的には水野8代5万石の城下町として栄えた。
そんな沼津城だが、現在殆ど痕跡が残っていない、近世城郭としてここまで痕跡が残っていないのは珍しいと言えるぐらい徹底的に城郭が破壊されているため、言われなければここに城があったとは分からない
現在城の設備として残っているのは、とある敷地内に埋まっている井戸ぐらいで、他に堀があった跡を伝えてる案内板や発掘調査で見つかった石垣ぐらいである 本丸跡と伝わる現在の中央公園ですら後世に再開発されたものである。

中央公園にある沼津城本丸址の石碑、下の石垣は発掘調査で見つかった三枚橋城時代の石垣である

旧東海道の川廓通り 狩野川と沼津城の外堀に囲まれた特異な土地だった故、このような名前がついたと言われる、外堀は埋められ、郭は削られ、狩野川には堤防が造られた今、当時の様子を伺うことは出来ない




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